例えば、烏丸通を上がって見ていくと、「九条烏丸」「烏丸七条」「烏丸五条」「四条烏丸」「烏丸三条」「烏丸御池」…と縦横どちらの通り名が先に来るのかはっきりしません。どういう法則なのか?さらに、「東山四条」は「祇園」、「西大路今出川」は「北野白梅町」などと、今度は通り名すら使われません。
なんとなく長年の疑問でした。探すと、日経新聞の電子版に記事がありました。(気になっていたのは私だけではなかったようです。記事を見つけスッキリ。)
時は平安京に溯ります。そのころは中国に習い、東西の区画を「条」、南北の区画を「坊」とし、東西の「条」を先に呼んでいたようです。それが室町時代になり、商人達が通りの両側に「両替町」を作るようになります。その町には通りを挟む「たて町」と「よこ町」ができ、経済力が有力な町の方を先に呼ぶようになり、以前の規則が崩れきたようです。そのため東西、南北、どちらが優先されるかは統一されなくなりました。豊臣秀吉による町の開発も影響をおよぼすことになったようです。
もう一つは市電時代の電停名をそのまま引き継いでいるというのもあります。四条通りはその例で、ほとんどの交差点が四条を先にしています。これは、繁華街の通りに引かれていた通り名(四条通)を優先したようです。
また番外編では「五条大宮」のように、交差点名とバスの停留所名が異なる場所もあります。
というように、以前には規則がありましたが徐々に崩れてきて、時代背景や地域の習慣にあった呼び方に変わってきて今に至っているようであります。更にまた数世紀経つと、町の様相も変わり呼び方も変わっているかもしれません。規則よりその時次第。なんだか自由でいい感じがします。
たかさん



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